これはなかなかに手強い。こういう例えは本意ではないkれど、「奇跡の海」や「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の頃のラース・フォン・トリアー、あるいはダルデンヌ兄弟の「ロゼッタ」くらいに、観る者の感情の、取りつく島もない、そんな手応えのない思いにかられる。観客が匙を投げるのが先か、理解が追い付くのが先か。先ずは、街の喧騒と環境音に、たびたびボリューム負けしてしまう演者の台詞。(監督曰く)現実味が薄れるから台詞を目立たせるような調整はしないとのこと。一方で、聞き取りづらい声や会話は。却って登場人物たちの「相互不理解」を際立たせる。怪我の功名なのか、狙い通りなのか。そして感情移入という言葉とはほど遠いところにいる、主人公のふたり。昇と樹冬。日本語には「捨て鉢になる」という表現があるが、観客が追いかけている昇と樹冬のいずれにも、本気で「鉢を捨てる」までの覚悟がない。他人を殺めるにしても、自らの命を絶つにしても、それなりの覚悟が要る。想像力が要る。積極性が要る。反して、なんとか生きていくにも、下げるべき相手に頭を下げる必要があるのに、それすらも進んでは出来ない、したくない。腑抜けたふたり。その意固地な姿は、いくつかの話題にみかけた、生活保護も受けられず性風俗に手を染めた、と報じられた貧困に苦しむ女性の姿、にも繋がっていく。ろくな収入減がないのに、スマホも酒も手放せない。浮浪する彼らの電源はどこにあるのか。などの些細な疑問も、浮かんでは消えていく。甘えや未熟さを誇張するかのような現実のデフォルメも、たえず感情を煽り続ける。けれども、彼らを覗き見るようにあとを追うカメラに、最後まで付き合った者に見えてくる景色が、確かにあった。
品川浩太 さんの感想:東京フィルメックス2016 アンケートより
